愛と会い…

Par Origenius

26 avril 2009

今からちょうど2000年前、聖パウロは生まれました。今年は、聖パウロの誕生を記念する聖パウロ年ですから、聖パウロによって教会にもたらされた教えや、信仰の経験などを思い出すよう特に招かれています。教会の神学に対する聖パウロの貢献は豊かです。これから、「王たるキリスト」の前書きとして、聖パウロの福音的な考え方について書かせていただきます。聖パウロを理解する助けとして、次の手紙の箇所を読みましよう。

ーコリント13、1-3

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。

愛についてこの手紙を書いた時、多分、聖パウロは、自分の経験について考えていました。これはある程度、自伝的なテキストなのです。聖パウロと呼ばれる以前の彼は、サウロといい、ファリサイ派に属している正しいユダヤ人でした。神様によってもたらされた律法を保ち、神様から受けた御言葉に従って、天使たちの異言を語る人だったのではないでしょうか。ローマ人である彼は、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語を話し、人々の異言を知る教養豊かな人でした。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、無に等しい。

神様とその御言葉に対する熱情を表すほど、熱心な人である彼は、あの「偽預言者」イエスについて聞き、普通のユダヤ人たちが騙されないよう、イエスに従っている人々を一所懸命に迫害し、ユダヤ教を守ろうとするほどの強い信仰を持っていたのです。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。

正しいユダヤ人としてサウロは、神聖に行く道を歩み、宗教的な掟を守り、施しをし、自分の命をも犠牲として捧げる心づもりがあったのです。サウロは、このように熱心な人でした。ところが、自分の生涯をかえりみた時、大切な事が欠けていたのです。パウロは「愛がなければ」と繰り返して言いました。愛がなければ、騒がしいどら、無に等しい、私に何の益もない。自分の過去を振り返ってみると、それほど熱心な彼が行ったどんなに優れた業も、愛なしでは、何も役に立たなかったのです。その時、愛がなかったと彼は認めています。何かの出来事によって、サウロの人生に愛が入り込んだのでしょうか。そうです。これは普通、パウロの回心と言われています。具体的に、復活されたキリストと会って、彼は確実に新しくなりました。復活されたキリストと会うことで、彼には、神様の救いの計画が明らかになりました。実は、回心する前に欠けていた愛というのは、復活されたキリストでした。

パウロにとって愛とは、復活されたキリストです。つまり、私たちの心に、復活されたキリストがいなければ、私たちがどんなに優れた業を行っても、役には立たないと言うことです。

私たちは、聖パウロの信仰の経験を理解して、彼と同じように復活されたキリストと会い、愛を満たされて、新しく生活するように招かれているのです。

よし、やるぞ!!

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