来て、見て、信じる

信仰のテンポ

Par Origenius

23 mars 2008

ご復活、おめでとうございます!

毎年、復活祭にあたり、このような挨拶が出来ることを嬉しく思います。復活は、私たちの信仰の一番重要な点です。私たちが、キリスト教の信者となった基本的な理由。それは、キリストが復活されたこと。それだけです。

「来て、見て、信じる」

私たちは、キリストの復活を認めて、信じる者となったのです。それは、どういうことでしょうか。

ヨハネの福音にある、イエスの言葉を思い出しましょう。

最初の弟子たちを呼びかけた時、一人の弟子が「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねると、イエスは「来なさい、そうすれば分かる( 見る)」と答えられた。[ ヨハネ1、39] イエスに従う為に呼びかけられた最初の弟子たちは、まずイエスに信頼するように招かれたのです。信頼することによって、イエスの後に従い、イエスの神秘に与るようになったのです。イエスが神学的な説明をしたならば、誰も彼に従わなかったでしょう。イエスの神秘に入ることは、イエスと会って、イエスと一緒に生きることなのですから。これが、愛の神秘に入ることなのです。

イエスに、「来なさい、そうすれば分かる」と言われて従った弟子たちと同じように、私たちも、イエスを信じる人として、イエスの後に付いて、来て(行って)、見ましょう。

ラザロと名付けられたイエスの友人が病気で死んでしまった時、イエスは、ラザロの姉妹マルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われた。[ ヨハネ11、24-25] そして、「復活を信じますか ?」というような質問をされた。彼女は「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

実は、この時のマルタは、まだ復活を信じていません。勉強した事を、繰り返して言っただけなのです。まだ、イエスを救い主として認めた訳ではないのです。この時の彼女はまだ、『来て、見て』いない者なのです。ところがイエスは、ラザロを生き返らせることを通して、マルタを愛の神秘に与らせました。そのことにより、マルタは復活を信じました。公教要理で勉強をした訳ではなく、キリストと会って信頼するようになり、キリストと一緒に生きる人として、キリストの愛の神秘に入ったのです。

イエスが十字架上で殺され、葬られてから3日目、イエスの愛された弟子は、お墓に入ったところで「見て、信じた」。その弟子は、お墓にイエスがいないことを見たその時に、イエスの復活を信じ始めたのです。[ ヨハネ20、8]

この弟子とは、「主よ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた弟子です。彼は、イエスに信頼したので、来て... 見て... 信じました。彼は、イエスの後に付いて行き、イエスが泊まっておられる所を見たのです。それは、神様のみ国、神様の愛でした。

「来て、見て、信じる」と言う表現。これは、信仰のテンポではないでしょうか。イエスに信頼すれば、神様の愛の神秘に与ります。そのことによって、私たちが既にキリストの復活の恵みによって生きていることを知り、私たちの信仰は強くなります。そうですね、キリストの復活を信じるということは、終わりの日の復活を信じるだけではなく、信仰の恵みを通して、復活されたキリストと会って信頼し、復活の恵みによって生きることです。

兄弟の皆さん、来て、見て、信じましょうか ?

Où suis-je ? Et cum Spiritu tuoParoles Parole 信仰のテンポ

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